吉田義男の死 [追悼]
今日も出勤日。この冬一番の寒波。あちこちで積雪のニュースがある中、大阪市内も坂道の学校近辺もちらりとも雪は降らず。ただ、寒いばかり。こういう日に限って登校指導の立ち番。ダウンパーカーを着て、手袋をしていても寒い。
火曜日は午前中3コマ連続授業の日。例によって午後はぐったり。それでも教材の印刷やら、同じ科目を教えている先生と試験範囲の調整などをしたりする。
定時を少し過ぎて退出。帰路も寒い寒い。
帰宅してからは読書。夕食はうどん。寒いときはうどんに限りますねえ。
夕食後は社説のダウンロードなどをしてから読書の続き。感想は明日以降に。
元プロ野球の名内野手にしてタイガース監督も務めた吉田義男さんの訃報 に接する。享年91。死因は脳梗塞。
さすがに現役時代は見てへんけれど、亡き父からそのすごさは聞いていた。人呼んで「今牛若丸」。私が知るのは第一次の監督時代から。当時の背番号は、ビリー・マーチンにちなんで1番。江夏豊さんの伝記などでは「チビ1」などというあだ名をつけられていたみたい。1976年には中村勝、藤田平、ラインバック、田淵、ブリーデン、掛布、池辺、東田といった布陣であと一歩で優勝というところまで行った。そのころに私は甲子園で4人連続ホームランという試合を見ている。ほんまに惜しかったなあ。翌年はBクラスに落ちて退任。1985年の第二次監督時代に真弓、弘田、バース、掛布、岡田、佐野、平田、木戸の「新ダイナマイト打線」で日本一に。「チーム一丸」「挑戦者」を繰り返してついに優勝。神宮球場の胴上げをテレビで見ていて、涙が止まらなんだ。生きているうちにタイガースの優勝が見られるなんて思わなんだからねえ。そのあとはフランスのナショナルチームの監督を務め「ムッシュ吉田」と呼ばれるようになり、藤田平監督の後を受けて第三次の監督に。暗黒時代真っただ中で、ドラゴンズから大豊と矢野を獲得したり、補強もあれこれとしたけれど、結局チームを浮上させることはできなんだ。監督として最後となったシーズンの最終戦は私も甲子園に見に行ってました。
確か私の父と同い年くらい。京都の山城高校から立命館大中退でタイガースに。2023年の岡田監督の日本一の時も甲子園に足を運び、日刊スポーツで解説をするなど、年齢を感じさせない元気さで、今季はタイガース90年という記念行事で、藤田平さんや鳥谷敬さんと一緒にセレモニーに出る予定やった。
最初は関西テレビ、のちにはABCで解説をしてはった。野村克也監督が就任したころやったか、アナウンサーに「同じ京都出身で……」と言われて、「えっへへへ」と笑うていなしてはったのを覚えている。吉田さんは京都市内、野村さんは丹後の出。「同じやおへんで」と言いたいところを笑いでごまかしてはったのかな。
あと、岡田彰布さんが2008年に監督を辞任した翌年、吉田さんとのダブル解説で岡田さんが後任監督の真弓采配をボロカスに言うていた時、しばらく吉田さんと岡田さんの解説が全くなく、アナウンサーの実況だけになったときがあった。二人して放送席から離れていたのかな。で、解説に戻ってから岡田さんの口調がおとなしくなった。あれは吉田さんが岡田さんに指導をしてはったんやと今も信じている。
これでタイガースOBでは小山正明さんが最長老ということになったかな。小山さんは今もデイリースポーツで解説をしてはる。もう一度サンテレビの解説席で共演してもらいたかったなあ。
吉田監督には3度の監督時代にそれぞれ楽しませてもろうた。タイガースを愛し続けたムッシュ吉田。決して忘れることのでけん監督です。
謹んで哀悼の意を表します。
火曜日は午前中3コマ連続授業の日。例によって午後はぐったり。それでも教材の印刷やら、同じ科目を教えている先生と試験範囲の調整などをしたりする。
定時を少し過ぎて退出。帰路も寒い寒い。
帰宅してからは読書。夕食はうどん。寒いときはうどんに限りますねえ。
夕食後は社説のダウンロードなどをしてから読書の続き。感想は明日以降に。
元プロ野球の名内野手にしてタイガース監督も務めた吉田義男さんの訃報 に接する。享年91。死因は脳梗塞。
さすがに現役時代は見てへんけれど、亡き父からそのすごさは聞いていた。人呼んで「今牛若丸」。私が知るのは第一次の監督時代から。当時の背番号は、ビリー・マーチンにちなんで1番。江夏豊さんの伝記などでは「チビ1」などというあだ名をつけられていたみたい。1976年には中村勝、藤田平、ラインバック、田淵、ブリーデン、掛布、池辺、東田といった布陣であと一歩で優勝というところまで行った。そのころに私は甲子園で4人連続ホームランという試合を見ている。ほんまに惜しかったなあ。翌年はBクラスに落ちて退任。1985年の第二次監督時代に真弓、弘田、バース、掛布、岡田、佐野、平田、木戸の「新ダイナマイト打線」で日本一に。「チーム一丸」「挑戦者」を繰り返してついに優勝。神宮球場の胴上げをテレビで見ていて、涙が止まらなんだ。生きているうちにタイガースの優勝が見られるなんて思わなんだからねえ。そのあとはフランスのナショナルチームの監督を務め「ムッシュ吉田」と呼ばれるようになり、藤田平監督の後を受けて第三次の監督に。暗黒時代真っただ中で、ドラゴンズから大豊と矢野を獲得したり、補強もあれこれとしたけれど、結局チームを浮上させることはできなんだ。監督として最後となったシーズンの最終戦は私も甲子園に見に行ってました。
確か私の父と同い年くらい。京都の山城高校から立命館大中退でタイガースに。2023年の岡田監督の日本一の時も甲子園に足を運び、日刊スポーツで解説をするなど、年齢を感じさせない元気さで、今季はタイガース90年という記念行事で、藤田平さんや鳥谷敬さんと一緒にセレモニーに出る予定やった。
最初は関西テレビ、のちにはABCで解説をしてはった。野村克也監督が就任したころやったか、アナウンサーに「同じ京都出身で……」と言われて、「えっへへへ」と笑うていなしてはったのを覚えている。吉田さんは京都市内、野村さんは丹後の出。「同じやおへんで」と言いたいところを笑いでごまかしてはったのかな。
あと、岡田彰布さんが2008年に監督を辞任した翌年、吉田さんとのダブル解説で岡田さんが後任監督の真弓采配をボロカスに言うていた時、しばらく吉田さんと岡田さんの解説が全くなく、アナウンサーの実況だけになったときがあった。二人して放送席から離れていたのかな。で、解説に戻ってから岡田さんの口調がおとなしくなった。あれは吉田さんが岡田さんに指導をしてはったんやと今も信じている。
これでタイガースOBでは小山正明さんが最長老ということになったかな。小山さんは今もデイリースポーツで解説をしてはる。もう一度サンテレビの解説席で共演してもらいたかったなあ。
吉田監督には3度の監督時代にそれぞれ楽しませてもろうた。タイガースを愛し続けたムッシュ吉田。決して忘れることのでけん監督です。
謹んで哀悼の意を表します。
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