同じ授業は二度となし [日常生活]
今日も出勤日。どのクラスも既に一度以上やっている内容なのに、その度に緊張する。ちょっと気を緩めると予断が多くなり、肝心の授業内容が薄くなる。かと言うて授業をがっちりと進めようと思うと、早めに予定の内容まで行ってしまい、引き延ばしをはかったり、早めにあいさつをして残りは質問コーナーにしたりとか、同じことを何回も繰り返しているのに、同じような授業にはならんのですね。
これは、例えば古典落語などもそうやし、クラシック音楽の演奏もそう。米朝落語はCDの全集やDVDも持っているけれど、同じようで微妙に違う。テレビ局のスタジオみたいに比較的狭くてお客との間が近い場所での録画と、ホール落語で広い会場にたくさんのお客が座っているような場所での録画を比べたら、前者の方がお客の反応をすぐに受け止めて続けているなあとか。
セルジウ・チェリビダッケという指揮者は、生前、放送用に録音されたライヴ音源でも、一切製品化をゆるさなんだことで知られている。音楽の演奏というものはその時だけ、その会場にいる人だけが受け止められるもので、何度も聴き返したりするものやないという信念があったんですね。その死後、遺族の許可を得た者が製品化されていて、同じブルックナーの交響曲第8番を、同じミュンヘンフィルハーモニーで演奏していても、録音した都市や、会場が違うものが何種も販売されている。どの演奏も立派なものやけれど、生で聴いた人のライナーノートを読んだりすると、マイクの位置などの関係でその時とはまた違う聞こえ方をするという。
そういった名人や巨匠の残したものと自分の授業をいっしょにしたらファンの方からひんしゅくをかうかもしれんけれど、上手下手関係なく人前で何かをするというのはそういうものなんやということです。
定時に退出して、帰宅後は寝床でスマホをいじったり本を読んだり。交流戦ブレークで木曜までタイガースの試合はなし。こういう時にゆっくり読書を楽しまねば。
これは、例えば古典落語などもそうやし、クラシック音楽の演奏もそう。米朝落語はCDの全集やDVDも持っているけれど、同じようで微妙に違う。テレビ局のスタジオみたいに比較的狭くてお客との間が近い場所での録画と、ホール落語で広い会場にたくさんのお客が座っているような場所での録画を比べたら、前者の方がお客の反応をすぐに受け止めて続けているなあとか。
セルジウ・チェリビダッケという指揮者は、生前、放送用に録音されたライヴ音源でも、一切製品化をゆるさなんだことで知られている。音楽の演奏というものはその時だけ、その会場にいる人だけが受け止められるもので、何度も聴き返したりするものやないという信念があったんですね。その死後、遺族の許可を得た者が製品化されていて、同じブルックナーの交響曲第8番を、同じミュンヘンフィルハーモニーで演奏していても、録音した都市や、会場が違うものが何種も販売されている。どの演奏も立派なものやけれど、生で聴いた人のライナーノートを読んだりすると、マイクの位置などの関係でその時とはまた違う聞こえ方をするという。
そういった名人や巨匠の残したものと自分の授業をいっしょにしたらファンの方からひんしゅくをかうかもしれんけれど、上手下手関係なく人前で何かをするというのはそういうものなんやということです。
定時に退出して、帰宅後は寝床でスマホをいじったり本を読んだり。交流戦ブレークで木曜までタイガースの試合はなし。こういう時にゆっくり読書を楽しまねば。