SSブログ

一期一会の落語 [演芸]

 朝食をとりながら「100分de名著・善の研究」の最終回を見る。西田幾多郎は倫理の授業では「純粋体験」くらいしか記述がないけれど、それはそれで当然やったんやなあと思う。正直、西田哲学は何が言いたいのかあまりわからなんだというのが今月の「100分de名著」を見ての率直な感想。私がアホなんか、西田幾多郎の思想が難解なんか。どっちもかな。「純粋体験」だけはなんとなく理解でけんことはないんやけれどね。来月は再放送で「法華経」。そろそろ文学作品をとりあげてくれよ。
 朝からもや。うす暗く湿気っている。こういう日は晴れるのです。30年前に亀岡市で秋になると毎朝霧の中を原チャリで通勤していたからわかる。自宅を出た時よりもお山の学校についた時の方がもやは濃かった。でも霧というほど前が見えんことはないのですね。亀岡の霧はこんなもんやなかったなあ。フォッグランプをつけてんと身の危険を感じるくらいです。19世紀ロンドンの霧というのはどんな感じやったんやろう。シャーロック・ホームズも霧には難渋したに違いない。
 体が重く、仕事は低速モード。放課後は会議。さあ終了という時に発言した方がいて、その方の話というのがどこに着地するのかわからんので、最後まで聞かんとあかんというような感じでして、出席者一同耐えに耐えていました。で、少しばかり残業。
 帰宅後、昨夜録画した「平成紅梅亭」を見る。桂あやめ「悋気の独楽」、桂きん枝改メ桂小文枝「不動坊」など。あやめさんは御寮人(ごりょん)さんが似合う芸風になってきましたね。焼餅を焼く御寮人さんがいじらしくも可愛らしいのがよいね。師匠の五代目文枝が得意にしていたネタではあるけれど、やっぱり御寮人さんは男の目から見た女性なんですよねえ。むろんそれでも絶品ではあったのですが。久しぶりに生で落語を聴きたくなった。でも、六代目松鶴も米朝も五代目文枝も三代目春團治ももう生の高座に触れることはでけんのやなあ。枝雀没後すぐに演じた米朝のあの鬼気迫る「百年目」みたいな落語を生で聴いてしまうと、どんな落語もあれには及ばないと思う。あの高座、録画も録音も残ってへんのかなあ。でも、録画は録画、あの場の空気を再び感じることはでけんのやろうな。一期一会というのは、私にとってはあの高座、ですねえ。あれと、枝雀追悼落語会の座談会で柳家小三治が個人に贈る言葉としてものすごい形相で「てめえ、うまいことやりやがって」と言わはったのも、あれもそうかな。笑いというものに命をかけている人にしか口にでけん言葉やったなあ。
 なんか昔の話ばかり書いてしまいました。リアルタイムではここ ここ に書いている。あ、その時にも「一期一会」という言葉を使うたりしているなあ。
 上方落語四天王が全員鬼籍に入った今、この人の噺だけは聴いておきたいと思えなくなったのは確かでありますね。
 夕食は栗ごはん。秋ですねえ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:お笑い